昭和45年12月27日 朝の御理解
御理解 第49節
「信心は相縁機縁。」
機縁が生ずるそこから相縁になるという。機縁というのは所謂御神縁と言うてもよかろうと思うですね。御信心で言う所の機縁と言うのは。御神縁というものを頂かなければ、いかに金光様の言わば教会の隣におっても、中々縁を受けきらない人も沢山あるのですから。縁をいわゆる機縁を頂きますと。それこそ熊本、佐賀、福岡、大分辺りからあちらにそれぞれ支部が出ける位な縁というものが生じ、所謂それは全部機縁である。
そういう機会に恵まれた所の縁である。その機縁が生ずる。それはその機縁を私は、御神縁とこう言うですね。御神縁を頂いたとこういう事になる。そこでその機縁が段々相縁になって行く。所謂結婚なんかの時も相性がいいとか。何とはなしに例えば合楽なら合楽に、御神縁を頂いた人達がです、矢張り合楽の水に合うて行くというか。何とはなしに合楽的になって行くというか。
愈々有り難い縁に育って行くのである。皆さんの場合でもやっぱり元と言えば、矢張り機縁による事である。その機縁が段々育って参りまして、所謂相縁と言う事になって来る。昨日、午後の奉仕をさせて頂いております時、日田の綾部さん達がご長男とご一緒に参って見えられた。ご長男の運転される自動車で見えました。そして一人の方を導いてみえられた。お話を聞かせて頂くと、日田に民の寿という酒造家があります。
そこのご主人であると言う事である。綾部さんの所に矢張り、お商売の上で関係がある。たまたま丁度ご主人が来合せておられる所へ、合楽にお参りをすると家を出られる所であった。この頃綾部さん、あなた妙な所に行きよりなさるごたるけど、どこに行きよりなさるですかち言うちから。それは合楽の金光様。毎日お参りしよります。あなたもお参りしてみなさらんですか、と言う、まあ合楽のお話を色々された。
あなたがそのどっか、参りよりなさるち言うことを、もうやっぱ皆、知っておられる。どこ行きよんなさるじゃろうかと思いよったら、合楽までも行きよんなさるですか、と言う様な話から、合楽の話を聞かれた。そんなら一つ今日は連れて参って貰おうかと言うので、まあ参って見えたわけです。お話を聞くと何ですかね、何とか肺疹ち言うんですか。何か胸が悪い。医者はもう絶対手術しなければ治らんと言う。
それもその手術をしたくないから、色々なことに迷うておる。最近では催眠術なんかも相当凝っておられる訳です。最近では谷口つぁんの、所謂生長の家ですね。所謂生命の実相なども、まあ読んで色々研究される。信心の事を研究しよる。私には分からんけれども、四次元と言う事を言われた。四次元の世界と言った様な事をまあ、色々こう私は話を聞いた事なんですけれどもね。
ほれでここで色々お話をして、先生とにかく信心というのはやっぱり修行せな駄目ですなあ、とこう言われる。まあ何かこう催眠術なんか、例えばならそれは四次元か三次元か知らんけれど、そういう突飛な世界に遊ぶと言った様なものではなくてね、金光様の御信心は、どこまでも所謂、本当に人間が幸せになって行く事の為にする信心ですよ、と言うて私はお道の信心の修行感というのをお話させて頂いたら、色々勉強して見えますからね、どんどんどんどん入って行くんですね。
私の話に。素晴らしいと言われる。どういうとこが素晴らしいかと言うと、その家業の行と言う言が素晴らしい。あられもない火の行水の行と、例えばそれをしてはならんのではない。金光教の信心でもやはり断食をしたり、火の行水の行でもしますけれども、是はもう枝の枝、葉の葉のものであって実際は家業の行、それぞれの持ち場立場においてです。そのことをですね実意を持って例えば嫌な時もある。けれどもそれが修行なのだから。そしたら素晴らしいですねとこう言われる。
もう私共のごたるその言うなら無精もんが、それが修行だと分かるならばほんなら、私達の様な無精もんでもその家業の上に、充実した家業が出来る。もう私はもう目が覚める、もう目が覚めるとが嫌な位にある。あぁ今日もまたもう手形から手形に追われて、まあ色々な体は弱いし、色んな問題が沢山ある。大変なまあ財産家ではあるらしいですね。沢山な何億ていう山を持っておられるそうですから。
けれどもその矢張りそのお酒屋さんですから、その困るからと言うて、山を売ったりするわけにも、いけんのですね。やっぱり酒屋立てて行かにゃんと言う所でまあ色々、窮屈な所も通っておられる様です。そしてお願いをして良いでしょうかと言う言が、その今の部落のことであった。段々お話をしばらく聞いて下さって、そしてその後にそのお願いであった。そして私その事をお届けさせて頂きましたら。
すぐ頂いたのが、太平洋の洋という字であった。はあもうあんたの病気は私に任せなさりゃ、おかげ頂きなさるですよち私が申しました。その代わり一つ今日を堺にね、もう、病気をここに預けておいて下さい。この次に参ってみえる時に髭どん綺麗に剃って、髭を、こうしておられましたもん。所謂無精髭ですね、髭ども剃ってお出でなさいませ。もう、見るからにあの病人の様にしとりなさいますからね。
もう今日から病気は、私に預けて下さい。そしてどうぞしらごつでんよかけんで、一つ洋々たる心広い心にまぁなって下さいと。まあ大変その何かこう、はぁもう自分は助かるぞと言った様な、思われた様な感じがですこちらへ伝わって参ります。そしてで、その後に聞かせて頂いて私が驚いた神様が、ここに、一人の氏子を助けて下さる事の為にはこういう、微に入り細に渡っての実は働きがあっておる。
成程機縁。それ、そのまんまが御神縁だと言わなければおられないという事なんです。先生あの夢の事やらもお尋ねしていいでしょうかと言われる。どうぞお話下さいと申しましたら。実は私は、何日前かにですね、もうあまりにはっきりした夢で、その夢を自分で反復してみたずうっと。所謂その夢をずっと更えて見ました。ですから今でも心の中に、ありありと、その夢が残っておりますとこう言われる。
どういうお夢でしたかと言うたら、私が一生懸命山登りを致しておる。所がその山を登って行きよりましたらですね、それこそ広々としたその海が開けて来た。海が目の前は海である。そん時、その海の前に立ってです、私が思うた事なんですけれども。随分回り道をして来たなと自分で思うた。けれどもこの海を渡らなければいけんのだが、ほんならこれから泳がじゃこてと、こう思うた海を。
そしたら先生その海の上にですね、ずうっとその道が開けた。そしてその道を行きよりましたら、もう、それこそ絶景かな絶景かなと言わなければおられないような素晴らしい個所を、次々と通って行くお夢でしたとこう言われる。私は、それを頂いてからね、思いました。もう、こう準備があっとるのは、あなたは、もう助かりなさると同じこつと、私は申しました。私が、今ここで頂いたのも、太平洋の洋の字でしたよ。洋という字は灘、これは海ということ。洋という字は灘ち読むですね。
太平洋の洋。あなたが、二三日前に頂かれたという、そのお夢も、広々とした海の前に出たと言われる。そして、あなたが海の前に立って、思うておられることは、ずいぶんと回り道をして来たなぁということじゃった、その通りでしょう。私は先ほどは、催眠術をなさったり、色んな宗教書を、色々、あさったりされたこともね、まあ、無駄にはなりませんよと言うたけれど、実を言うたら、金光様の御信心させて頂くならね、やっぱり無駄なんですよと、皆が言うことですよね。
例えば、その、山の頂上ということを極めるということは、どこから登っても同じだなんていうことを申しますけれども。いや、金光教だけは違う、合楽だけは違う。ですから、やはり無駄だった。やはり、ずいぶんと回り道をして来たということは、そのことでしょう。その、広々とした海の前に出て、さあ、なら泳いででも渡らじゃこてと思うたら、そこに道が出けた。
今日只今からいわば、そういう是からは貴方が、もう何という素晴らしい教会であろうか、何という素晴らしい有り難い教えであろうか。まあ何と有り難い所にご縁を頂いたもんであろうかと、あなたが絶景絶景を叫んで行かれるようなね、これからおかげになるでしょうと言うてお話した事でした。素晴らしいですね、神様のこう一人の氏子を助けて下さるためにです、そういう働きがあってる。
はあほんなこて今貴方が仰る様に、洋という字。広々としたその大空を眺めさせてもらい、大海に臨ませて頂く様な大きな心になりなさいませ、と言うてです私はその、綾部さん達がお参りをして見える、ほんの何分前にですね、末永さんに言うてから、最近ここずうっと四五日頂き続けておる事なんですけれどね、私はちょっと書いてくれたものを、どっか、やってるですね。
あのジャンボと言う事を頂いておる。それから何だったかね末永さん。ああオールマイティと言う様な事。ザ・オールマイティち言うたらね、もう全能と言った様な意味らしいですね。又はねあの金力全能金の力全能と言った様な事。してみると是は大黒様ち言うこったいのち私が申したこつでした。打出の小槌さえ振りゃなんぼでもお金は出てくると言われる。是はほんならやっぱ、私がこっじゃったばいなと言うて、まあ言うたことでした。その説明をね二枚の紙に書かせてですね。
是を持って来とる所へこの人が参ってみえられた。だから私はそれを見せてね。例えば私が頂くとも、今の洋々たると言うことだし。その言わば大海の様な信心をすりゃ、鯨が住む様なおかげと、所謂ジャンボ的なおかげとでも申しましょうか。あれはジャンボであの最近は、綾部さんの事をジャンボ小母しゃまち言うちから、光昭どん言いよるがほら、ジャンボ小母しゃまてん何てん言うちゃいかんよち、私は昨日言いました。
あれはですね、もう巨大な象の様なと言われるんですね。もう見苦しいほどに大きいという事だそうです。それをもうあのジャンボ機が出来たもんだから、大きゅうさえありゃ、ジャンボジャンボち言いよるとに、あんた、綾部の小母ちゃんに、あんただん、ジャンボ小母しゃまジャンボ小母しゃまち言うちから。その事はいかんよち言うた事でしたけどね。そういう意味があるんです。
だからね貴方はね、もう本当にそういうおかげを、是はね体の事はね今の胸のこの事はねそれはもう、ほんな入り口にしか過ぎませんよ。それを通してですねあなたが例えばこの病気の事でも、気に掛けない位に大きくなっておかげを受けられたらね、その大きくなられただけは、金銭の上にでも全ての上にです。おかげが受けられるて私が申しました。信心で大きな心を頂くと言う事は、そういうその病気だけの事じゃない。
全てがその中に包み込まれる様なおかげになって来るんだから。大変もう本当に初めてお参りしてきて、初めてお参りして来た様な風にない。私も何か初めてお届けさせて頂く様な気がしない程しに、何かですねその私の話がこう、よく浸透して行くんですよね。そこに一つの縁が生まれる事の為にはね、そこに人が助かる事の為には神様のね、そういう、一つのご準備と言った様なものがあって。
例えばおかげを頂いておっても、そこから機縁が生じ、それが相縁になって行っても。その相縁が出来て参って。所謂絶景かな絶景かなと言うて、ほんなら通らせて頂く道。まぁ何と合楽という所は素晴らしい所であろうか、有り難い所であろうかと言うて、ほんならお参りをして来る様になる。そういう風に縁が合うて行く。何とも言えん味わいのものが生まれてくる。本当に有り難い、有り難いになって来る。所がね所謂その歌の文句じゃないですけれどもね。水差す人が出来てくる。
だからいかに水差す人が出来ても、それこそ会うたその夜の二人が仲を見せてやりたい、と言った様な歌がありましょう。だからそこまで行かなければいけん。誰がいかにどの様に水を差そうとも、又どういう問題に直面しようとも、それ程有り難い有り難いと言うておってです。おかげを受けておったものが、そこに水を差された所に一遍に冷え切ってしまって、サッと信心が冷めて行く人が、沢山あった事ですよね。
ここ合楽今日の二十年間の間に。ちょいともう本当あげな信心な珍しか、もうあげな熱烈な信心、あれほど良い信心を頂きよった人が、どうしてあげな風になれたじゃろうかち言うごたる例は沢山あるでしょうが。水差されてから冷えたんですよ。私は問題はね今日は、いっちょここん所を皆さんが一つ頂いて頂きたいと思う。皆さんがここに機縁が生ずる、御神縁を受けられた。
そして本当に朝参りの有り難さも、信心の有り難さもまあ言うならば、親先生と皆さんとの間の中にも、それこそ誰が何と言うたってと言う様な、熱い熱い縁になって行く。教祖様がご晩年の頃は、お参りをして来る信者氏子に対して仰せられたということなんですけれどね。用心しなされや信心に熱が入ってくると、神様のお験しがありますぞと言うことでした。信心に熱が入ってくる熱々になってくる。
そういう時にですどんなに水を差されても、本当言うたら水を差される隙でも作っちゃいかんですよね。私共が場合のことを思うてみたら、もうそげな隙なんかもう傍まっでん寄れんごたるもんでした本当。水を差されてからこの人が言うとるのが、ほんな事どんじゃなかじゃろうかと思うて、ぐらぐらする人がありましょうが。ようやくはあ確信と自分でも思うておった、確信して負った様な言が少しで、ほんならこの人が言うとがほんなこっじゃろうかと。
それが何かの例えば問題に直面しておる時に、それがそう言う事に成って参りますからです、矢張り迷いが生じたりイライラするわけ。そして冷め切ってしもうて、あれほど有り難い、有り難いと言うて合楽通いをしておった人がです。ピシャッと信心を止めてしまうと言った様な例が沢山あるですよね。そういう人達が本当に育っておったら、もう合楽は大したことであろうけれども、仕方がないこと。
信心は相縁機縁、機縁が生ずる。それはもう不思議なまでの機縁。例えば是を熊本を例にとりましても、佐賀の例にとりましても、大分の例にとりましても、私と皆さんの例を取りましても、本当にそもそもの自分のことを思うてごらんなさい。不思議な不思議な縁に結ばれておるのですよ。それを今日まで皆さんは育ててみえた。そしてほんなら是から先私共がほんならどの様な事に直面するとも限らない。
どの様な人に会うとも限らない。皆さんもご承知の方もありましょうね。堤さん達をお導きされた古賀さんというお婆さんが熱心に参ってきた。もう本当に熱心。もうそれこそもう誰が何と言うても、もう本当に親先生とは誰が切っても、切れんごたる仲に育ってたかに見えた。所がその所謂信心好きなんですよね矢張り。所がある時に、佐賀の禅林会に、とにかく有り難かですばの、一遍参って見なさいち言うちから。
一週間かなんか、そのお金やらお米やらを持って行かんなんとですからね、持って行ってあの一週間あちらで講習を受けてみえた。帰って来てどう言うか。皆さん中村さん達や、みなさん達に言われたのは、どういう事かと言うと、合楽の先生当時は椛目の先生ですね。椛目の先生は、確かに日本一じゃろうばってん、今度私が行った所ん、佐賀ん先生は、あぁた世界一ばのち言わっしゃった。
そしてからちゃんと世界一の方へ移ってしもうとる。皆さんが随分その方の為にお導きを頂いた方もあるし、もう本当に実意を尽くして、まあとにかく古賀さんに言うて行ったばってん、いいやとてもそれは椛目もね、有り難かばってん禅林会はまぁだ有り難かと言うて、お参りをするようになられた。それからもう間もなくでした。私がお知らせを頂いたことを中村さん達、何人かにそれを言うて行って貰いました。
その大城橋の下にですね。ああそれはねそれから間もなく休みつかれました。それで中村さん達がね、導きまたあの行かれた所がね、昨日はこげな夢ば頂いたち言うちから、その言われた言があの大城橋の下をね、その畳の船がそれ自分が乗っておる所を、お夢頂いたが、どげなこっじゃろうか。椛目の先生に尋ねてくれち言うことじゃった。考えたってね、畳でから浮いとるから、こうして楽なごたるけれども、段々段々水が染み込んで来りゃ、沈まにゃしようはない。
とにかくもう一遍切り替えちから、合楽通い親先生にお伺いお願いをしておかげ頂かんのと言うて、言われたけれども。もうそん時にはもう言わば体の方が言うこつ聞かじゃった。もう行かれて来てからお見舞いに行った人がね、帰ってから話しましたがあまり嫁御さんやら娘さんが良うせんごたる風で、もうそれこそせんぺいのごたる布団を敷いちから、もう本当に哀れな姿じゃったと言うてですね。
迷うとねそういう事になるとですよ。折角の機縁を頂きながら、それを愈々相縁かに見えておった。有り難い有り難いと思いよった。所がある人の言うならば本当に悪魔の囁きの様な事ですよね。椛目も有り難かろうばってん、佐賀の禅林会はまぁだ有り難かと言うて、勧められて行ったのが、もう運のつきであった。只今私がここでします、あの日田の麻生さんと申します。只麻生さんの同じ字です。
民の寿の所謂大きな酒屋さんの、所謂旦那さんです。それが例えばそういう不思議な縁を受けられて、ここへ来てから神様のそういう働きを、前々から受けておられたという事をです感じて。そこに一つの機縁が生じた。もう私を助けて下さるために、そういう神様の働きがあっておったことを、有り難いと思われて、これから所謂お夢の中に現われて来るように素晴らしい、素晴らしいと言うてここへ通うて来られるようになる、と私は思うんですけれどね。
そういうほんならお互いがです、そういう有り難い有り難いと言いながらです。誰かが水をさすことで冷え切ってしまうと言った様なね、その例が沢山ありますから。私共はそこん所をです、本気でどういうお試しを受けても、どういうそれこそ水を差されてもです、それこそ会うたその夜の二人が仲を見せてやりたいぐらいなね、粋というものがなからなければならないと言う事です。迷うということが一番いけません。
だからどの様な場合でも迷わんで済む信心をです、一つ本気で頂いとかなければならん。信心は相縁機縁。その様な不思議な縁。所謂機縁を頂いてです。所謂それを私は、今日は御神縁と申しました。機縁。そのままが御神縁。そういう御神縁を頂いて、それを段々育てて行く所に合楽通いの楽しさと言うか。合楽の信心の素晴らしさが、段々分かって行って。有り難い勿体無いと言うておってもです、そこに相縁になってきた。
そういう相縁と思われる、言わば程しのおかげを頂いておってもです。信心に熱が入って来ると、神様のお験しがありますぞ、と教祖様が仰っておられる。そのお験しこそがです水を差される事になる。水を差されてそこで冷え切ってしまう様な事のない、一つおかげをね、そう言う言があっても、例えば迷わん狂わんというだけのです、信心をしっかり頂いとかなければならんと思うので御座います。今日はそういう意味でね、信心は相縁機縁と言う所を聞いて頂きました。
どうぞ。